安藤ストリートのご紹介

全長432メートル。左右に安藤忠雄氏設計の建築群、通称「安藤ストリート」。完成までの経緯をご紹介します。
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壮大な『STREET』のプロジェクト

仙川の街を初めて訪れたのは1994年、当地の都市計画道路の事業決定の4年後である。クライアント(伊藤容子さん)の依頼は、計画道路により分断される敷地での、集合住宅を中心とする複合施設の計画だった。公道を挟んで連続する敷地の面白さに惹かれ、即座に依頼を受けることを決めた。街並み形成をテーマにスタディを始め、プランをまとめる段階まで進んだが、結局この初期構想は諸所の事情から頓挫してしまった。

私を含め、関係者の誰もがプロジェクトを半ば諦めた。だが伊藤さんだけは諦めずに夢を持ち続け、奔り続けた。その彼女の思いの強さが、民間のディベロッパー、地方自治体を巻き込み、ついに初期構想よりはるかに発展的な形の、壮大な『STREET』のプロジェクトを実現に導いた。

全長500メートル余り、ハナミズキの街路樹に彩られた『STREET』を歩き、改めて、街をつくるのはあくまでそこに生きる個人なのだという事実を思い知る。今後は生まれた街を育てていく段階に入るわけだが、その先頭に立って奔る彼女がいれば大丈夫だろう。

建築家として、このプロジェクトに参加できたことを、心から幸運に思う。

建築家、東京大学名誉教授
安藤忠雄
(2007年6月展 街が生まれる-仙川「展覧会によせて」より) 

432Mの両側に良好な環境を

昭和37年(1962)伊藤家の南北に長い(432m)敷地に幅員16mの都道(調3 4 17号線)が敷かれることが計画されました。

それは南北に当家の敷地の端から端までナナメに縦断することになり、ほとんどの敷地がかかっており、残地は細長くしかも資産価値が下がるような変形3角形や台形になってしまうのでありました。

東京都にはそのような計画路線が縦横無尽に計画され、なおかつ何十年も事業決定されずそのまま手つかずの状態で置かれているところが沢山あるようです。

平成元年(1989)当家で相続が起きて折からのバブルまっただ中の相続税はそのほとんどが土地だったため、天文学的な数字に跳ね上がり残された者を苦しめました。そうこうしているうちに、翌年平成2年(1990年)なんと当家の土地の上に横たわっていた計画路線が事業決定されることになったのです。

前置きが長くなりましたがそこから安藤ストリートの出発点になったのです。
片手に巨額の相続税、しかしながら当該敷地のど真ん中に幅員16mの都道が抜ける、そこで悩みに悩み出来るなら都道で分断された432mの残地の両側に統一された良好な環境を創りながら開発が出来ないものか、、、ただでさえ巨額の相続税に悩まされている状況なのにその上また大きな夢という悩みを背負い込んでその道を選択するということは茨の道を進むというよりは不条理の闇の中を手探りで進み、しかも足下は人跡未踏のでこぼこの岩だらけ、1歩踏み外すと真っ逆さまに崖下に転落死するような想像を絶する日々の連続でした。

残地を片っ端から切り売りして納税したらどんなに楽だったろうかと思ったこともしばしばありました。しかし切り売りはいつでもできるという思いと最後までガンバってみようという意志が安藤忠雄先生に伝わり先生の深いご理解と絶大なるご協力と調布市や民間の会社をも巻き込み、最初に思い描いた計画よりはるかに素晴らしい街並になったのです。

もう今では誰からともなく仙川のこの通りが安藤ストリートと呼ばれるようになりました。歩きながら四季を感じ、どなたでも享受できる低層で良好な生活環境、奇跡と呼んでも良いような贅沢な街並みが完成して、今はただそれに尽力して頂いた安藤忠雄先生、調布市そして民間の理解ある会社等多くのお世話になりました皆様に謝辞を述べ、今後の街づくりに少しでも貢献できましたら幸いと存じております。

東京アートミュージアム
創立者
伊藤容子
(2007年6月展 街が生まれる-仙川挨拶文より)